忘れていた。 50とか100とかの節目のときにそれまでのブログを自分で読み返して面白かったのを紹介しようとか考えてた。 いざ50記事目が来ても50ということすら忘れてたから仕方ないが。 せっかくなので3つほど。 まずは
通称『宇佐おじさん』の話。
初めて「書けたー」と思えた記事。完全実話の脚色なし。現場が緊迫していたせいで写真が一枚も撮れていないのは痛恨の極み。
宇佐おじさんの哀愁が伝わる記事になってる。
次は
ワクチン接種に潜む罠を書いたこの記事。
これから打つ人にも見てほしい。河野さんにもぜひ読んでもらって今後の改善に繋げてほしい。
最後に
とある島の話。
近所のスーパーと比べてもらえたら。
まぁこんな感じかな。次は100記事達成したときに考えよう。
さて、9月も後半に入り、『10月から頑張ろうかな』という心の中のカイジが囁き始めた。これじゃダメというのはずっと言い続けているが、人間というのは簡単には変わらない。
そしてもうひとつ
自分で分かっていてもなかなか治らないものがある。それは
『やるべきことをすぐできない』というもの。
やらなきゃやらなきゃと思いながら、気が付けば1ヶ月経ってたなんてこともざら。
やらない理由があるわけでもなく『なんとなく』後回しにしてしまっている。
これが本当にタチが悪い。事実9月前半くらいまでに片付けようと思っていたことは何一つ出来ていない。
どんなことをしようとしてたかいくつか紹介すると
・10月からの仕事の前準備
・要らない服を捨てて衣替えの準備
・キャンプギアの整理
・歯医者の予約
やれよ。マジでいつでもすぐ出来ることやないか。
歯医者の予約なんて電話するだけだろさっさとしろカス。
と思う人も多いことだろう。自分でも分かっている。難しいことなんてなにもないはず。やれば終わることしかない。
だがそれが僕には難しいのだ。やろうと思っていても気が付いたら無駄に時間が過ぎている。
昨日だって服の断捨離するつもりだったのに、とあることをしていて出来なかった。世界一ムダな時間を過ごしていた。これは自信ある。絶対に世界一ムダな時間。
勝てる人いる?
なぜこんな簡単なことをすぐに出来ないのか考えてみた。すると記憶の奥にある、今のこの何でも後回しにする性格の発端となった出来事が思い出された。
僕が小学生だった頃、近所に『ぼんおじ』と呼ばれている変なおじさんがいた。世捨て人のようにも見えるが、飄々としていて妙に教養のある人だった。
めちゃめちゃボロい家に住んでたし、めちゃめちゃどもってたし、めちゃめちゃハゲてたけど僕ら子ども達はぼんおじと仲良しだった。
僕らはよくぼんおじの家に遊びに行っていた。
将棋を教えてもらったり、昔の話を聞かせてもらったり、エロビデオ見せてもらったり。
ぼんおじと過ごすなかで分かったことは
ぼんおじは東京の出身であること
元々はいろんな島を転々としながら小説を書いていたこと
どもっているのは、高校のときに好きだった女の子のストーカーをしていることがその娘にバレてしまったショックが原因だということ(若干その子のせいにしている節があった)
自分で宗教をひらいていて、今は全国にいる信者からのお金で生活をしていること
そう、ぼんおじは教祖様だったのだ。
その名も『梵教』。
今考えると胡散臭さしかないが、僕と友人は入信することにした。
名前や生年月日などの簡単な情報を書き込んだ紙に拇印をおしてぼんおじに渡す。
すると梵教の教えが書かれた紙を渡された。そこには以下のようなことが書かれていた。
1.時を無駄にするな
2.目を高くあげよ
3.去るものは追わず、来るものは拒む
4.明日出来ること今日しない
もうお分かりかと思うが、僕は今でも4番の教えを忠実に守っているのだ。なんて信心深いんだと自分でも感心する。
そしてこの教えはツッコミどころしかない。
まずは1と4の矛盾。2の抽象さ。そしてなんといっても3である。一体どうやって信者を増やしたというのか。
僕の後回し癖の原因は分かったが、どうやって治せるかはまだ分からない。でも今日はぼんおじを思い出せてよかった。
僕のやらないといけないことなんて明日出来ることばかりじゃないか。
明日やろうはバカ野郎?誰だこんな世知辛いこと言ったやつは。
このぼんおじと過ごした日々は僕の血肉になってるのは確かなんだ
今週のお題「肉」
血肉となる経験はいいことばかりではない。
ぼんおじ元気かな?また機会があればぼんおじのことを書いてみようかな。